BLUE
UP00/05/16
更新01/09/24
自己紹介||HOMEへ


平成12年度かたばみ会総会実行委員会編
宇部高校同窓会誌「はじまりの夏―ミレニアム同窓会2000」(2000年8月13日発行)所収




 僕が入学したころの宇部高には、出入り自由の屋上があった。授業の合間に寝ころんで、青い空をよく見た。そのころの僕は、心がすさんでいて、空を眺めることで、洗われた。

 もともと中卒で働くことが希望だった。「早く働いて家を出たい」とばかり思っていた。当時、宇部は苦痛の町でしかなく、早く宇部を逃げ出したかった。早く家を出て働きたかった。

 高校進学を希望していたわけではない僕が、宇部高を受けたのは、ただただ見栄が理由だった。中学でそこそこの成績をおさめていたことで、宇部一番の進学校・宇部高を受験して腕試しをしたかったのだ。当然、滑り止め校は受けなかった。宇部高一本で受験した。でも合格発表は正直言って怖かった。掲示板に自分の名前を見つけたとき、月並みにうれしいと思った。合格すると進学したくなった。

 ただあと3年、家族からの独立と宇部を出るのが遅れることに苦痛を感じた。僕にとっての宇部高は、苦痛と見栄が共生する存在だった。

 宇部を逃げ出したかった僕は、日本という国も嫌いだった。できれば世界をまたにかけた仕事につきたかった。1年生の時の志望は通訳。志望校も東京外語大学だった。



 「何をしているんだ」
 指導担当の先生の声がこだまする。顔が阿修羅のようだ。
 「空を見上げていただけです」
 僕は答える。
 
 「とにかく空を見上げていたかったんだ」
 つぶやくが、その言葉は空しく宙をさまよい、先生のもとには届かない。

 
 僕の後ろには、数十人もの友達の人だかり。屋上の神秘空間の魅力は、いつのまにか僕だけの隠れ家を何十人もの友達が参加する屋上クラブのような存在にしていた。


 「空を見上げていただけ」と言う言葉は、先生には、全く信用されない状態だった。
 先生が怒号する。
 「もう授業が始まっている。早く教室へ行きなさい」


 こうして高校一年の時、屋上クラブは閉鎖された。青い空へと通ずるドアは開かずのドアとなった。その後も僕は、宇部高の中に、それなりの隠れ家を見つけたが、その都度、先生に発見され、叱責される連続だった。

 ただ入学当時発見した一人で青い空を見上げられる空間ほど、完成された世界はなかった。

 ――もっと信用してほしい。

 管理される生活が苦手だった。自分と重ね合わせ、管理社会からはじき出される人の気持ちが痛いほど理解できるようになった。

 管理社会を形作っているもの、それは法律にほかならない。そう考えた僕は、まず敵を深く知ろうと考えた。そして敵の弱点を探ろうと思った。こうして高校2年の時、通訳の志望に代え、「社会的弱者の救済がしたい」と弁護士を目指すことに決めた。

 それは、法律を武器として身を守ることで、自分自身も救済されたいという衝動でもあったと思う。


この文章は、宇部高校の同窓会誌に寄稿した文章です。ちなみに同級生に、「エヴァンゲリオン」の監督庵野秀明なんて言う人もいます。彼へのインタビュー記事も、同誌に掲載されています。)



 追記01/09/26:昨年の秋、久しぶりに宇部高校を訪れました。が、ここで触れている校舎(写真中央木の奥に見える建物が建っていたところにあった)はもうなくなっていました。それどころか高校1年から3年まで過ごした校舎もすべて建て変わっていました。

 先生に怒られ母親まで呼びつけられた職員室棟(写真の校門から見て左側の3階建ての建物)と、そしてサボってばかりいた朝会。その朝会が開かれていた体育館(校門から見て右側の屋根が丸く見える建物)だけが、当時のまま残っていて、校門から見える風景が、当時と今でほとんど変化がないことが、とても不思議な感じがしました。

 今年13年4月1日に、宇部高校のホームページもできたようだし、この写真は、この宇部高校のホームページより無断で拝借しました。photo by TAKAMASA ITOさんだそうですが、著作権なんで主張しないでくださいね。By OB。





宇部高校校門
学校のシンボル・ケヤキの木/九月 photo by TAKAMASA ITO