ノストラダムス時代を生きぬく
―1999年の年頭にあたって―
本文1400字
初出:週間法律新聞1999年1月2日号


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宗教被害資料集





  人はかくも悩み多き生き物なのか。宗教カルトの被害救済にあけくれる毎日を送っていて痛感する。

 生病老死とはよくいったもので、人は生まれながら、悩むために生まれてきた。腰が痛いとマッサージに通う、気功にはまる。顔のしみやしわを気にして高級化粧品を買いあさる。禿げ頭を隠すために鬢髪を頭にかぶせる髪形にする人もいる。宗教カルトの被害に限らず、「病気をなおす」「痩せる」「美しくなる」なとどこうした人の悩みをターゲットにした悪徳商法も跡をたたない。

 人は生まれたときから死ぬべくして運命づけられている。死は絶対に避けられない。死へのプロセス、老化も絶対に避けれられない。老化が進めば、肩や腰、ひざが痛むのは当然だ。しかしこうした老化現象までもが、トイレと同じ自然現象ととらえられずに、いまや、病気だと考えられ、治癒の対象とされるようになった。

 また難病は現代医学では直らないから難病だ。難病が気功や宗教で簡単に直るなら難病とは言わないはずだ。日本テレビが、特番や出版などで推奨した「邵錦(しょうきん)」という中国人気功師がいた。宇宙パワーと称する超能力で難病を直すなどと言って、難病患者やその家族から高額な金銭をだまし取った。東京地方裁判所も、民事裁判の中で詐欺だと断定したほどの悪質な事件だ。もちろん難病患者を餌食にした邵錦は断罪されなければならないが、難病を、自然現象の一部として受け入れることができない患者の気持ちが狙われたことにも心せねばならない(注1


注1 参考関連記事


 膵臓ガンやスキルス(胃ガンの一種)は、ガンが発見された時にはもは手遅れとも言えるガンで、著名なガン医師に言わせれば「寿命が来た」とあきらめなければならない病気だそうだ。個々の人間には、生まれたときから、確実に生命体としての限界があるのだ。

 ところが社会がますます複雑化し、隣人との競争社会の激化の中で、この限界を納得できない人間が増加しているように見える。昔なら老化だからと納得できたことが、競争社会の中で、肩や腰やひざが痛いと言ってはいられなくなる。50代の部長さんも30代の課長さんと一緒に競争しなければならないことの結果だ。しかし病気も老化も自然現象の一つ。本来、薬でなおるはずのないものだ。なおると考えること自体が非科学的、オカルト思考とも言える。こうした悩みに宗教カルトはつけ込んでくる。だからカルトは文明病である。また生病老死に対する安直な発想は、「簡単に世の中が変えられる」という宗教カルトの発想にもつながっていく。老若男女を問わず、世紀末日本に、こうした安直な発想が蔓延していることに危惧を覚える。

 ついに1999年に突入した。金融ビックバンを控え、いっそうの競争社会の激化は避けられない。高齢化も急激にすすんでいる。そうした時代に、ますます宗教の持つカウンセリング機能としての役割は高まるだろう。しかしそれは同時に、一歩間違えば、宗教カルトがますます跳梁跋扈する時代にもなりうることを意味する。国がこうした時代背景に目を開き、もっと「心のカウンセリング」を充実させた社会を作ること、また市民のほうも、生命体としての限界を、よい意味で「あきらめられる」姿勢に発想転換をすることが必要だ。そのような社会にならなければ、僕の仕事も、ますます大変になるし、オウム真理教のような宗教カルトが再び登場することになるだろう。