法の死角
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提案
親しみやすい弁護士像を求めて―「さん」付けで呼び合いませんか―
全友ニュース1990年12月15日号(1990年8月5日記)
―僕の所属する第二東京弁護士会内の派閥「全友会」の機関紙。

 原稿の内容は全友会所属の弁護士に向けたものですが、司法全体の課題として、全弁護士にとって、この原稿から10年以上を経た現在においても、十分に意義を有する内容だと思います。
 そこで今回、若干オリジナルなものに加筆修正をしたうえで、ほぼ同文をアップすることにしました(約3000字)
 
2002年5月19日UP



アメリカの栽判所の「親しみやすさ」


 私は、1990年3月、研修所を卒業した後、そのまま弁護士の仕事につくことなく、1カ月間ほどアメリカ全土を自由に旅する機会を持った。大学時代は、自由になるお金もなく米国にも行ったことがなかったので、すぐに弁護士になっても視野が狭いのではないかと感じたからだ。

 米国旅行は、もちろん一人旅。気楽なもので、一泊140ドルのホテルから一泊17ドルのおんぼろホテルまで、西海岸から東海岸へといろいろと全米を渡り歩いた。
 旅の途中で様々な所を訪れたが、アメリカの裁判所にも時々ぶらりと立ち寄り、裁判の傍聴をしたり、勝手に人のいない法廷を見て回ったりした。法律家を目指す者ならではの旅であった。
 
 日本では、アメリカの裁判所が親しみやすい理由として、陪審制度が採用されていることが強調される例が多いが、テキサス州ダラスの裁判所の法廷には、傍聴席横の掲示板に、その部を担当する裁判官とその家族がニコニコして写っているほほえましい家族写真が掲示されていたし、ワシントンにある合衆国連邦最高裁判所の地下には御土産物売場があって、連邦最高裁のロゴ入り鉛筆やらタオルやらマグカップの各種グッズ、そして驚いたことに最高裁判所判事のプロマイド、ポスターまでもが展示販売されていた。
 記念にマグカップを買った私も、裁判官のプロマイドなんてを誰が買うのだろうかと思いつつも、裁判所の持つこんな「親しみやすさ」が、判決の持つ説得力を醸成しているんだなあと痛感させられた。
 日本では一般の旅行ガイドブックでは、市庁舎などの行政や立法府までは掲載されているが、三権の一翼を担う司法の場は掲載されていない。

 だが陪審法廷などは必見に値する。ぜひ皆さんも、観光スポットとしても裁判所を訪問することをお勧めする。


日本の司法とのギャップ

 こんな親しみやすい雰囲気は日本の裁判所には存在しない。日本の法廷の空気は重く、親しみやすさのかけらさえ感じない。最近でこそ市民の傍聴もちらほら見かけるようになってきたが、傍聴しているのはいつも弁護士だけ、法廷は同業者だけで占められている。
 日本の裁判所は、米国とは異なり、御上(おかみ)的「権威」で、判決の持つ説得力を維持している。しかし「権威」というものは、その実質が伴わなければ、早晩国民の信頼を失うのは目に見えている。そんなことを思いながら私はアメリカからの帰途についた。


弁護士に「先生」と付けることへの疑問

 日本の裁判所だけでなく、日本の弁護士業界にも、修習時代から大きな違和感を感じていた権威主義的な悪習がある。
 弁護士同士で、お互い「先生」「先生」と呼び合う悪習である。そしてその悪習は、日本全国、TPOを問わず広く常態化している。

 たとえば私が、この原稿を書く際に受け取った「全友ニュース」の原稿執筆依頼文の冒頭が、「先生の御活躍に心から敬意を表します。」と書き出されていたり、弁護士同士の自主的な研究会においてでさえも、お互いを「先生」「先生」と呼び合ったりする。
 依頼者が敬意の念を込めて、弁護士を「先生」と呼ぶのには一定の意味があると思うのだが、どうみても同期に近い先生同士で、あるいは期の若い弁護士に対し「先生」付けをするのは合理的理由を見出し難い。弁護士同士でお互いを誉め合って、いったいどういう意味があるのだろうか。

 このような悪習がいつ頃から始まったのか不明であるが(おわかりなる方がおられるなら教えていただきたい)、弁護士の未だ社会的地位が低かった時代に、弁護士「先生」付け運動なるもが逆にあって、これより権威を醸成し、弁護士の地位を現在のごとく引き上げて行ったということがあるのかもしれない。

 しかし、既述のように、内容の伴わない権威付けは、次第に一人歩きを始め、弁護士の敷居を高いものにしてしまう。またそれは、弁護士同士の気軽に議論しあう雰囲気を阻害し、弁護士の進取性を損なう源となる。


どうして「さん」付けで呼びあわないのか

 弁護士及び弁護士会は、裁判所及び検察庁に対し、国民に開かれた公正な司法の実現を絶えず求め続けている。弁護士は、国民の具体的ニーズを汲み上げるパイプである。そのパイプが動脈硬化をおこせば、国民に開かれた公正な司法の実現は、絵に描いた餅になる。この意味で、弁護士自身も真に国民から「親しみやすい」ものにならなければならない。

 既に指摘したとおり、アメリカの裁判所は、陪審制という制度だけでなく、裁判所を親しみやすいものにするために、法廷に裁判官の家族の写真を掲示したり、裁判所の地下で裁判官のプロマイドを販売したりと地道な努力を続けている。「親しみやすさ」を醸成する雰囲気が、制度それ自体と共に国民に開かれた公正な司法の重要な要素となるからである。

 日本の弁護士及び弁護士会は、法律相談センターや仲裁センターのような国民の貝体的ニーズを汲み上げる制度の拡充を図るとともに、弁護士業務それ自身を、国民から真に「親しみやすい」ものにするために努力をすべきなのである。

 改革はできるところから始めるべきであり、弁護士同士がお互いを「さん」付けで呼び合うくらい、決して難しいことではない。弁護士が真に国民に親しみやすい司法の実現を求めるならば、先ず自分の足元から改善して行く必要があるのではないか。


弁護士「さん」付け運動に向けて

 私は事務所(※2001年8月31日まで、現在は今の事務所)に入るとき、以上のような趣旨を説明して、事務所の弁護士を「さん」付けで呼ばせてほしいとお願いした。各弁護土は気軽に了解してくれた。
 
 依頼者の手前、事務所の弁護士を「先生」付けで呼ぶこともあるが、親しみやすい弁護士像を求めて日々「さん」付けを実践している。そして私のような考え方を少しずつ広めていけば、いつか「さん」付けをしても、決して相手の弁護士をぞんざいに扱っているのではないということがわかってもらえる日が来ると信じている。

 そんなことを考え、私は今この「さん」付け運動の輪を広げて行くことを考えている。幸い私の考えに同調してくれる弁護士も同期には多数いる。しかし本当のところを言えば、全友会があるいは二弁が、全国に先駆けてこの問題を取り上げてくれれば、本当にありがたいと思うのだが・・・・・・。



【追記】
 本稿脱稿(1990年7月31日)後、「『親しみやすさ』大切に」という見出しで、既に大阪弁護士会が、弁護士「さん」付け運動に取り組んでいるとの新聞報道に接することができた(日経新聞1990年8月4日付けタ刊)。

 記事によると、「役員間では5月下旬から「先生」と呼ぶ度に千円の罰金をとることにし、早くも五万円がたまった。一年生弁護士グループも同様の協定を結んでいる」という。
 日経は、弁護士界が「消費者重視」の姿勢を打ち出したものと評価し、こうした動きは全国に広がりそうだと結んでいる。

 私は、大阪弁護士会の先見性に敬意を表する。そして東京でも弁護士「さん」付け運動を早期に開始し、大阪と連動して全国に「さん」付け運動の輪を広げていくことを強く訴える。



【UPにあたっての追記】2002年5月19日 
 このような動きは、現在では、かなり広がり、たとえば僕の所属する日弁連日弁連消費者問題対策委員会では、お互いを「さん付け」で呼び合うことになっている。
 業界内での「先生付け」の悪臭が解消しつつあるのはうれしい限りである。

 またこの間、裁判所の改革がほとんどなされていないことに驚く。日本の最高裁判所は、未だに一般傍聴者の正門からの入場を拒否し、通用門からの入場のみ許している。時代錯誤はなはだしい限りである。







 
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